プロフィール
●幼少期~小学校時代:
ちょっと重い病気をもって生きる人生計画の始まり
4歳のある日、顔がパンパンにむくみ国立病院を受診したら、ネフローゼ症候群と診断されました。その日から即入院となり、そのまま2年間の長期入院。ステロイドが効きづらい難治性で、治療の過程で左目を失明し、右目は白内障と緑内障を発症。この病院は野戦病院跡地に建っており、病棟の窓の外にはお化けが見えて怖かったのですが、看護師さんたちがわかってくれないので誰にも言えず、じっと我慢することを覚えたのが最初のインナーチャイルドの記憶です。6歳で退院したのですが、自宅から徒歩5分の近所に出かけるときでも、途中で足が疲れて歩けなくなり母の背中におんぶしてもらうほど、虚弱な子どもでした。
入院中には2回の臨死体験がありました。天国の向こう側でまぶしい光が、「大丈夫だから」と僕を安心させて、地上に戻してくれた記憶があります。「怖い、怖い」といつも心の中で言う子どもでしたが、そのときだけは自分の意思で地球に戻っていく、男の子の勇気がありました。この体験があったおかげで、僕の中にはいつも「一人じゃないんだ」という、守られている感があります。
小学校に入学後も、頻繁にネフローゼを再発。毎年1回は入院し、その都度入院期間は数カ月。いったんステロイド治療を始めると、細菌やウイルスへの免疫力が弱くなり、退院できるレベルまでに抵抗力を戻すのに数十日かかるためです。学校に登校できた日も疲労感がひどくて、午前中だけで早退する日がほとんど。母親は仕事を辞めて専業主婦となり、僕が早退の連絡をすると、すぐに車で学校まで迎えに来てくれる日々でした。母との連絡に使っていたのは、当時まだ珍しかったポケベル。公衆電話から電話をかけると、ポケベルがピピピッと鳴るだけのシンプル機能でしたが、母は自宅にいなくても「迎えに来て」の合図がわかるので、僕たちにとっては命綱といってもいいくらい便利な手段でした。
この頃、世の中で流行っていた見えない世界といえば、スピリチュアルというよりも、オカルトでした。よく親に買ってもらっていたのは、雑誌ムーなどのオカルト本。愛のなさに違和感を感じつつも・・・他の情報を知らなかったので、怖いもの見たさから、本棚にいつも並べて読んでいました。ちなみに、映画『エクソシスト』を見たときには、悪魔に憑りつかれた主人公の女の子の映像がショックとして残像に残り、その日の夜、眠ることができませんでした。宇宙人グレイが人間を誘拐して人体実験をしているという話が、学校で流行っている時代でもありました。
●高校~大学時代:
少しずつ視野が広がり、ポジティブな記憶も出現するように
少し困ったのは高校時代。義務教育ではないため、授業の2/3以上に出席しないと進級できないという問題がありました。電卓で計算して、欠席できる1/3の日数をぴったり休みながら、何とか卒業することができました。体力的にはかなりきつかったですが、世間を知らず、宇宙人っぽさ全開だった僕が、初めて計算してうまくサバイバルすることを学んだ時期でもありました。
高校生活で楽しかったのは、大好きだった小学校時代の担任の先生によるクラシックギター教室を自宅で開催したこと。この教室は、小学1年生のときにクラスメートを対象に恩師が開始してくださったもので、いちどは高校受験を前に解散したのですが、僕のほうから恩師にお願いして、高校入学後に再開していただきました。もういちど参加希望の仲間2人に声をかけて、自宅のリビングで受験直前まで定期的にレッスンを開催することができました。今ではまったく引かなくなってしまったギターですが、ずっと心に残る思い出です。
高校卒業後は、福祉系の単科大学に進学。受験の日、電車に乗り遅れて遅刻すると思ったところ、心の中から「大丈夫だから」との安心感のあるささやき声が聞こえました。しかも国語試験では、4日前に買った参考書とほぼ同じパターンの問題が出題されていました!
ここまではっきりとガイドからの導きを感じたのは、人生でこの一度きりです。入学後は清瀬市の学生寮で4年間暮らしました。入ってみると、けっして同級生が福祉分野への就職を志しているという感じではありませんでしたが、それでもかなり優しい人が多く、初めて心を打ち明ける友人ができたのもこの時期。しだいに体力も出てきたので、授業には出ずにアルバイトばかりしていました。病院の夜勤、新聞社本社、福祉系の団体など。アナウンサー学校に行ったりもして、外に出て社会を知るのが楽しくて、楽しくて。反抗期がやってきたのも、この時代。ちょっと遅めだけれど、これはきっと抑圧された子ども時代を送っていたからでしょう。できなかったことが、急にできるようになっていく嬉しさではじけまくっている4年間でした。
●社会人時代:
眼の症状が辛くて、途中棄権ばかりのグタグタ人生
大学卒業直後は、特別養護老人ホームとデイサービスを持つ社会福祉法人に就職。しかし若気の至りで、海外に出てみたいとの思いが強くなり、退職して25歳のときにフィリピン大学大学院に留学して農村開発を学ぶことに。貧困地域にフィールドワークに出かけることが多かったのですが、僕は公用語のタガログ語が全然ダメ。なので、愛想と笑顔を振りまいて地域の方々になじもうとしたのですが、彼らはそれをとても快く受け入れてくれ、生活が苦しくても笑って受け入れてくれるホスピタリティに心が洗われました。ただ修士論文の作成に入ると、僕は細かいデータを扱うのが苦手で、プレゼンテーションでも自分の話が急に飛ぶなど、論理性や緻密性に欠けたおバカぶりを露呈。ぜんぜん計画通りに進まない調査、減っていく貯金。プレッシャーとストレスで、メンタルが不安定になり、大切な友人とも喧嘩してしまうほど崩れた状態でした。満身創痍になりながら修士論文を書き終えることができ、その後は神戸大学大学院に入学するも中退。社会に出てはじめて体験した、自分の限界と挫折感でした。
福祉から離れて、一般企業に初めて就職したのは30歳のとき。グローバルな通信会社で、海外現地法人との連絡調整の仕事に携わりました。金融機関のネットワーク構築が主な業務でしたが、僕には会社員としての常識がない上、フィリピンのいいかげんさに馴染んでいたため、仕事のやり方が雑で遅く、メールの書き方もわからず。上司からビジネスの基礎を教わりながら、最初の外部メールを送信したのは、就社後3か月も経ってから。忍耐強く指導してくださった先輩方には感謝しかありません。1年ほど経つと仕事にも慣れてきて、やがて将来のキャリアを考えるようになりましたが、海外調整の仕事ではスキルと見なされないため、今後のキャリアアップには、ネットワークエンジニアとしての資格と技術が必要なのは明確でした。しかし、この頃からパソコンのディスプレイを1時間ほど見ているだけで、うつ病ではないかと思うほど気持ちがど~んと沈み、記憶障害、眼精疲労などの重篤な症状が現れるようになっていました。いつも右目が疲労しきった状態になっていて、頭も回らないので、ほとんどの時間をヘロヘロな状態で仕事するありさま。どの眼科を受診しても、原因はわからないままでした。とても期待通りの貢献をしているとは思えない働きぶりで、職場には本当に申し訳ないと思いながらも、自分にはそれを説明する能力がありませんでした。体調を気づかってもらったときでも、「大丈夫です」と感情を押し殺すようにして、強気になって答えていました。意識がぼーっとなりながら、何とか最低限の業務をこなし、休日は寝込むようにしてぐったりと寝て過ごす日々。家事はほとんどできず、部屋は荒れ放題。プロジェクトの同僚たちには申し訳ないと思いながらも、何かを変えなくてはという思いが強く、ずっと気になっていたスピリチュアルのセミナー会社への転職を33歳のときに決めました。
これがきっかけでスピリチュアル分野の会社で働くようになり、その後17年間、延べ3社でスピリチュアルセミナーやセッションの企画、運営、マーケティングの業務に携わってきました。仕事では、様々なスピリチュアルヒーラーさんから、500回を超えるセッションやセミナーを受ける機会に恵まれたため、それにより自然とサイキックセンスの覚醒の基礎ができていったのだと思います。もともと僕は、スピリチュアルに関わることは好きだけれど、売上を考える部分にはストレスを感じており、それが心の中に葛藤としてずっとたまっていました。そんなときに安心できる環境でセッションを受けると、自然と自分のハートが開き、葛藤からのザワザワ感やモヤモヤ感が感覚として表出し、高い波動に触れることで、一気に感動や覚醒が起きて意識が変わるという体験を重ねてきました。スピリチュアル分野とはいっても、仕事は普通の企業と変わらないと思っていたので、仕事中の僕はいつも責任感を感じていて、緊張状態が強かったのですが、それでもゆっくりと積み上がるように無意識下で変化していったようで、期待していなかった産物でした。
でも、健康については、目の状態が改善するどころかしだいに悪化していきました。体力にちょっと自信のない僕は、後先のことは考えずに、とにかく飛ばせるところまで飛ばすようにして、毎日仕事をしていましたが、それだと長期的にバランスを崩すほうに傾いてしまっていました。数日仕事をしては倒れ込むように帰宅し、少し回復して、また飛ばすけれど、徐々に体調不良が長引くようになるサイクルになり、次第に2時間ほどパソコンを使ったたけで憔悴しきって声が弱々しくなるなど、これまでになかった症状が出始めたため、「もうだめだ」という限界を感じて、スピリチュアル業界の仕事を離れることにしました。
●スピリチュアル能力の開花は、思いもよらないハートの反応がきっかけ
求職活動で、ほとんどパソコンが使えない状態の僕を受け入れてくれたのは福祉系のNPOでした。東京の山谷地区で活動する団体で、困難ケースの利用希望者であっても排除することなく、できる限り受け入れるという、崇高な精神性をもっていました。面接を受けに本部事務所に行くと、光の柱が立っているのが見えたし、面接官からも徳の高さを感じました。入社後の現場研修で出会ったのは、人生で様々な理由があってこの場所にいて、社会的には恵まれていないけれど、その奥に持つ魂がとても強い人たち。決して恵まれているとはいえない環境に生まれ育つことは、魂の成長にとって最高の条件であることを感じました。
僕が配属されたのは、精神障害者の通過型グループホームという3年間の期限付きで利用できるアパートタイプの施設での世話人。毎日、入居者の部屋を訪問して、一人暮らしのスキル習得や経済的自立に向けてのサポートをするお仕事でしたが、初めて会った時から、彼らの多くの方たちのハートの奥が輝いているのが見えました。表層に出ている障害とはまったく異なる神々しさを放っていたのです。彼らのハートを感じたときに、それに呼応して触れるようにしてみると、自分のハートも暖かくなり、数日後に自分の内側の感覚が開くということを何度も体験しました。それを繰り返すうちに、自分の本質に正直になることができて、サイキックセンスが開花していくという体験をしました。この仕事を通して、将来のビジョンも見えました。それは「障害のあるなしに関わらず誰もが、社会の幸せの基準とは離れた、自分だけの安心できる環境を見つけて、自分を理解してくれる人たちに囲まれながら、ワクワクできることを中心にした暮らしができるような環境づくりをサポートする」こと。
その後、いくつかの出来事の流れがありNPOを退職。ちょうど大阪に住む100歳の祖母が老人ホームに入居することをきっかけに、空きの出た祖母宅を借りて、2026年にスピリチュアルサロンを始動することにしました。築80年ほどのかなり古い家ですが、できるだけ心地よい雰囲気で、出会う方々お一人おひとりをお迎えすることができたら、と思っています。
